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<< 被写体側へ >>


2002/12/02(Mon)

 自らの音楽活動として新たに組んだ男ユニット「Nippon Danjie」のPVを撮影した。今回、藤浪くんという非常に優秀なプロのカメラマンに撮影をお願いし、初めて撮られる側に回ってみたわけだが、自分の動きのあまりに中途半端なのには驚く。ファインダーに向かっているときはいつも被写体に「もっと極端に動け!」と檄を飛ばしているものの、いざ実際に自分がそちら側に立ってみるとどうも動きがぎこちなくしかもダイナミクスが足りない。自分ではずいぶん派手に立ち回ったつもりなのだが。
 それにしても藤浪くんというのは非常にすばらしい映像を撮ってくれる。同じ釜の飯を食ったこともあり、公私ともによく知っている間柄ゆえ、いちいち事細かに説明しなくても僕がどんな映像を期待しているか阿吽の呼吸でわかってくれる。テープにはいっさい無駄がなく、まさにこんな画がほしかった、というものばかりだった。実に得難いカメラマンだ。
 彼がいなければ僕が被写体に回ることはまずないだろう。というか、彼がいてくれるならいっそ僕も監督兼俳優をやってみようかなどというイケナイ願望にとりつかれる今日この頃である。
小谷隆


<< 新作短編映画クランクイン >>


2002/12/15(Sun)

 新作「運命」がクランクインした。激務の合間を縫っての撮影になるが、今年中にどうしてももう1つ手をつけておきたかった。今回は短編といっても出演者が複数になるし、現在のインフラからするとかなりの「大作」の部類といえる。前作のように1日ですべての素材を撮影し切るというわけにもいかない。
 シナリオについてもかなり綿密なものを用意した。インサートカットの詳細やBGMのタイミングまで書いてある。しかし毎度のことだが撮影の現場で新たなアイデアが浮かぶと臨機応変に書き換えてしまうので、もはや最初の原型からはかなりかけ離れたものになっている。いざカメラを回してファインダーの画を眺めてみると、紙の上で想像していたのとは違うものが見えてくる。実のところそうした現場での発見こそが良い作品を作るエッセンスになっていると思う。ただそれは事前に綿密なシナリオを準備する過程でいろいろなことを煎じ詰めた結果として生まれてくるアイデアであるともいえる。
 それぐらい煮詰めたシナリオがあると、出演者としてもイメージが湧きやすいようだ。たとえ現場で変更があっても、確固たる柱ができあがっているとどんなことにも臨機応変に対応できる。実際、黒柳陽子さんも再三の変更にもかかわらず快く対応してくれた。
 さて、今回は音楽でもちょっとした面白い試みをしようと思っている。これも撮影しながら思いついたことだが、全編、ベートーヴェンの9つの交響曲の中で僕の好きなハイライト部分をBGMに採用することにした。とはいえベルリンフィルやウィーンフィルの音を使うわけにもいかず、自前のシンセサイザー音源の演奏になる。パソコンでどこまで本物っぽいオケの音を出せるか、これも大きなチャレンジだ。何しろ楽器の数が多いのでたった数小節でも打ち込みに数時間かかるが、これはこれで編曲の勉強にもなるから一石二鳥かもしれない。
 ただでさえ公の時間も慌しい年の瀬。音楽においてもこの映画がクランクアップするまでの間に別の映像作品を撮るかもしれないし、音楽制作者として数曲の新曲も発表することになるだろう。しかし人間はえてして忙しいときの方が仕事が速いものだ。無理のきかない歳にさしかかってきたとはいえ、まだ不惑の歳までには少々時間がある。今年いっぱいは全力で駈け抜け、電車のうたた寝で痛めた背筋も走りながら治していこうと思う。
小谷隆


<< 演技の適度な大きさとは >>


2002/12/21(Sat)

 さる筋からご招待をいただいたので、芸術座の舞台を観てきた。松坂慶子さん主演、「奥様の冒険」。なかにし礼さんの作品で、随所に礼さんの作詞作品の歌が登場する準ミュージカルである。松坂慶子さん扮する39歳のくすんだ主婦が、マンションの隣に越してきたカラオケ教室の騒音に殴り込みをかけたら、そこの先生(山城)に潜在的な魅力を発見され、「もうひとりの自分」探しの旅に出るというものだ。
 山城さんや草刈正雄さんなどの名脇役に支えられて舞台そのものは良い出来だったが、歯に衣着せずいえば松坂慶子さんの演技はお世辞にも巧いとは言えなかった。僕の作った「MIYAKO1999」というアルバムを愛聴してくれた松坂さんには申し訳ないが、はっきり言って一生懸命なのはわかるものの女優・松坂慶子としての知名度と魅力がなかったらとうていあの演技力では勝負にならない、というのが正直な感想だ。この人はまだまだ映像だけの人だな、と感じた。
 映画にしろテレビにしろ、もともとは舞台がそこにない代わりに遠隔で見せる代替品にすぎず、それがひとつの芸術として独立しただけのこと。そこにはお客さんの反応がないから、役者はそこにいないお客さんをバーチャルで感じながら演技しなければならない。しかしこれが実に難しい。
 どうも映像用の演技は小さくなりがちだ。日常の動作の大きさを脱することができない。しかし映像であれ演技で感情を伝えようと思うとかなり大げさにやる必要がある。そのあたりの呼吸はやはり舞台と客席とのやりとりから得られるところが大きい。だから1本数千万円のギャラの出る映画俳優でさえ時おりカネにもならない舞台に立ってそれを再確認するわけだ。
 舞台を手伝っていた頃、僕はどちらかというと演技を大げさにやるように指導する方だった。するとたいていの俳優はそれではわざとらしいと文句を言うのだが、本人にとっては少しやり過ぎだと感じるぐらいが実はお客さんにとってちょうどいい演技なのだ。これは舞台でも映像でも同じ。
 とはいえただ動作を大きくすればいいというものでもない。松坂さんの場合、大きくしようとする意思が単なるオーバーアクションになってしまっていた。しかし大事なのはアクションそのものの物理的な大きさではない。必要なのはメリハリだ。どんな小さな動作にも30メートル離れたお客さんに伝わるぐらいダイナミックなメリハリがいる。テレビドラマでも映画でも広いスタジオやロケ地ならカメラはけっこう遠い位置から映像をとらえたりする。そうしないと役者はついつい目先のカメラとの距離感で演技をしがちだ。ちなみに僕は音楽の現場にあっては唄い手に「マイクに向かって唄うな」と口をすっぱくして言っている。役者なら「カメラに向かって演技するな」ということになる。
 30メートル先のバーチャルなカメラ---あたかも芸術座の最後列にあるカメラ---これを意識できれば1000人のお客さんに向かう演技ができる。1000人を相手にできる演技なら10万人の相手もできようというものだ。これを意識することができるようになったら映画俳優としては一流だろう。そして、もしもそういう距離感が感覚としてつかめるのならあえて何ヶ月もの時間を稽古に費やしてまで舞台に立つ必要はないと僕は思っている。
 手前味噌になるが、うちの黒柳陽子さんは舞台経験こそないものの、映像の中においてさえ時にフレームに収まりきらないような存在感を醸し出してくれることがあり、きっと舞台もこなせる人なのだろうと思っている。何しろ忙しい人なので劇場芝居どころではないというのが残念なところだが、いつかゆとりができたら舞台を踏ませてあげたいものだ。きっと舞台が小さく感じるような演技をしてくれることだろう。
 しかし、あれこれ言ったものの松坂慶子さんの女優としての存在感は凄い。演技の未熟さをカバーして余りある。否、演技の稚拙なところ自体が実は演技ではないかとさえ思わせるだけの力がある。そういう意味では大女優だと思う。四十路後半にさしかかろうとする年齢だろうが、女優としてはまだまだ円熟していく期待感さえ抱かせる。
小谷隆


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